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休日に志摩町方面にドライブに行って来ました 2 さんべ丸~深谷水道
前回のお話
http://isoryoriyach.jugem.jp/?cid=12
カフェCCさんで 盛岡冷?を食べたあと
FB友達でもある志摩町のさんべさんの仕事場に見学に行きました
仕事場は英虞湾に面していてとっても穏やかな場所です
とってもいい雰囲気♪
さんべさんの丁寧な説明を聞き、とっても勉強になりました^^
志摩町方面での釣り船は是非さんべさんところを!
http://www.ohyamanet.com/~sanbemaru/
岐路に付く途中、初めて深谷水道をまじまじと、
深谷水道(ふかやすいどう)は、三重県志摩市にある運河。英虞湾と太平洋を結ぶ。2006年(平成18年)に水産庁が発表した「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」に「志摩漁業の土木遺跡」の1つとして選定された。
志摩半島の南端にある先島半島は、この運河によって本土から切り離されており、島のようになっている
この日の外海は結構荒れていました
志摩市の南方、志摩市大王町船越と同市志摩町片田の境界に位置し、旧志摩郡大王町と同郡志摩町の町境となっていた。全長660m[注 1]、幅 14.5 m[3]で、英虞湾と太平洋を最短距離で結んでいる。水路は南北方向に通っており、北端と南端に灯台が設置されている。
地理的に見て最も陸地部が狭かったため、この場所に水道が建設された[4]。
地元の三重県立水産高等学校教員である湖城重仁が1960年(昭和35年)から1964年(昭和39年)にかけて深谷水道で海藻の分布を調査したところ、水道の深部では外洋性の海藻から内海性の海藻へと徐々に変化していった一方、潮間帯では水道口で植生が大きく変化しており、外洋水は深部では多く流入していることが明らかになった
御木本幸吉が真珠の養殖に成功して以降、アコヤガイの産地である英虞湾では、真珠養殖が盛んになった[5]。当時の船越村や片田村でも真珠養殖が行われたが、湾奥に位置するため冷水が滞留しやすく、赤潮が発生するなど問題を抱えていた[5]。特に1926年(大正15年)には、数十日にわたって海水温の低い状態が継続し、アコヤガイのほとんどが死滅するという大きな被害が発生した。そこで、黒潮の流れる暖かい太平洋の水を英虞湾に引き込むため、深谷水道開発委員会が結成された[3]。1931年(昭和6年)4月に三重県庁から許可が下り、同年8月に着工した[3]。『片田村郷土誌』等によれば、当時船越村や片田村の村民以外からは、深谷水道の開削により悪影響が出るのではないか、と建設に反対していたという[1]。
1932年(昭和7年)10月14日に工事は完了、深谷水道が開通した[3]。工費は当時の金額で135,000円を要し、船越・片田両村が負担した[3]。深谷水道の完成により、英虞湾の水質が改善されたばかりでなく、英虞湾と太平洋を往来する漁船にとっても便利な通り道となった[3]。また水道完成を契機として、片田浦に新しく港を造れるようになり、麦崎沖に張る大敷網も作られた[4]。この水道によって志摩半島から先島半島が切り離されたため、水道上には三重県道として深谷大橋が設けられた[4]。1969年(昭和44年)9月6日には、「公共性の高い航路」として、漁港指定を受け、深谷漁港の一部となった[6]。
2006年(平成18年)2月17日、「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」が水産庁から発表され、「志摩漁業の土木遺跡」として波切漁港の石積み遺跡とともに選定された。
2011年(平成23年)3月11日、太平洋三陸沖を震源として発生した東北地方太平洋沖地震で、深谷水道から侵入した津波が英虞湾内の真珠筏に被害を与えている
ウィキより
というわけで今回のレポートはおしまい
文章力が足りなくて、すみません m(_ _)mペコ
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